■ 西洋のインテリアの歴史
□ 近代
(1)19世紀から20世紀へ
産業革命による新しい工業の展開は、造形の面にも本質的な転換をもたらしました。
19世紀からの市民中心の文化は、民主主義の思想を背景に、一層民衆との結びつきを強めることとなりました。
1、鉄、ガラス、コンクリートの建築
1851年、ロンドンの第1回万国博覧会では、鉄とガラスによる大建築が建てられました。
ジョセフ・パクストン設計のクリスタルパレス(水晶宮)です。
1889年には、パリの万国博覧会の際、鉄骨による高さ312mのエッフェル塔がギュスタフ・エッフェルによって建てられました。
一方、アメリカでは南北戦争後、次第に自らの実力に目覚め独自の道を開き始めましたが、1885年に最初の高層建築がシカゴに建ちました。
エレベーターが最初に作られたのは1868年です。
このように、石やレンガによる組積造を基本とした西洋の建築は、鉄、ガラス、コンクリートを主体とする新しい技術を駆使することによって変貌しました。
2、アーツ・アンド・クラフツ運動
19世紀の中頃、イギリスのジョン・ラスキンは、著書の中で、「中世の建築では、それに関わった人たちすべての人格は、正しく認められ尊敬された。」として、ゴシック建築を高く評価しましたが、ウイリアム・モリスはその思想に共鳴し、当時の低俗な工業製品に対抗して、手工業による良質な製品の製作、販売を行うために、1861年モリス・マーシャル・フォークナー商会を設立しました。
モリスやその同調者による運動は、アーツ・アンド・クラフツ運動と呼ばれ、20世紀のグッドデザインの考え方にも大きな影響を与えました。
3、アールヌーボー
モリスの運動に刺激され、ベルギーやフランスを中心として、19世紀から20世紀はじめにかけて起きた運動は、流動感のある有機的な曲線を特徴とした新鮮な様式を生みました。
アールヌーボー(新しい芸術)と呼ばれる様式です。
ベルギーのビクトル・オルタ、アンリ・バン・デ・ベルデやフランスのエクトル・ギマールらの建築家、フランスの工芸家エミール・ガレなどが代表的な作家としてよく知られています。
1897年ベルデの仕事に興味をもったハンブルグの美術商ビングが、パリにラ・アールヌーボーという美術店を開いたのが、この様式の名の由来と言われています。
ほぼ同じ頃、ドイツ、オーストリアでも同様な運動が起こり、ユーゲント・シュティール(若い様式)と呼ばれました。
この時代より早く、オーストリアではミハエル・トーネットが、1830年代にブナ材を蒸気によって曲げて加工する技術を考案し、軽快な曲木の椅子などを制作するようになり、19世紀末にはヨーロッパやアメリカで大変な流行をすることとなりました。
イギリスでは、アールヌーボーに先駆け、エドワード・ウイリアム・ゴドウィンが、日本の造形に強い影響をうけたアングロ・ジャパニーズ様式と呼ばれる芸術性の高い家具をつくりました。
20世紀初頭にはチャールス・レニー・マッキントッシュも、ゴシックを単純化した独特の直線構成の室内や家具を設計しましたが、これも日本の影響が明らかに見られます。
このようなイギリスの傾向は、曲線的なアールヌーボーとは異なった特色を持ち、ウイーンのゼツェッションの運動に結びついていきました。
イギリスで最もアールヌーボーの特徴を表しているのが、画家ビアズリーのイラストレーションでしょう。
スペインのアントニオ・ガウディは、20世紀のはじめ、バルセロナにおいてカタロニアの地方色の強い幻想的な建築をつくりましたが、中でもサグラダ・ファミリア教会がよく知られています。
1910年に完成したカーサ・ミラをはじめ住宅建築においても、特異な個性を発揮し、また家具においても、アールヌーボーとの共通性を思わせる独特な作品を残しました。
(2)近代デザインの成立
アーツ・アンド・クラフツやアールヌーボーの運動は、近代デザインの歩みの中で大きな役割を果たしましたが、工業化した産業社会への対応性には欠けていたため、比較的短命に終わりました。
これに対し、機械生産に結びつく合理的な美しさや、機能性を重視するデザインへの流れが、次第に明確なものとなっていきました。
1、シカゴ派
19世紀末期に、発展のめざましかったアメリカのシカゴでは、高層建築が続々と建つようになりましたが、在来の様式的建築と異なる機能主義的な方向をめざし、鉄骨造りを採用するようになりました。
このように新しい建築を推進したシカゴの建築家の一派をシカゴ派と言っています。
その中心となったのがルイス・サリバンで、「形態は機能に従う」という機能主義の思想を象徴する言葉は有名です。
代表的な作品としてはカールス・ビーリー・スコット百貨店などがあります。
サリバンの主張はランク・ロイド・ライトに受け継がれましたが、ライトは後に有機的建築を唱えるようになりました。
2、ゼツェッション(分離派)
1897年画家のグスタフ・クリムトを中心に、オーストリアのウィーンの芸術家たちが集まり、従来のアカデミズムからの分離を唱えました。
建築家ではヨゼフ・オルブリッヒとヨゼフ・ホフマンが中心で、「実用主義」を唱え、用と美の調和を目指したオットー・ワグナーの思想を基に、その造形は幾何学的構成の方向に向かいました。
ワグナーの作品としては、ウィーンの郵便貯金局、シュタインホフの礼拝堂などがあり、ホフマンのものではブリュッセルのストックレー邸が有名です。
この運動は、日本にも大正初期に紹介され、建築やインテリアデザインに大きな影響を与えています。
3、ドイツ工作連盟
ゼツェッションは、その理念に比べ、まだ装飾に依存するところがあって、徹底した造形上の主張には欠けていました。
アドルフ・ロースはこれに対して「装飾は罪悪」と非難しましたが、機械と芸術の統一を実践しようとしたのが、ドイツ工作連盟です。
1907年ミュンヘンにおいてヘルマン・ムテジウスによって結成されました。
官僚としてロンドンに滞在したムテジウスは、イギリスの建築やデザインを研究して帰国し、簡潔さや合理性を意味するザッハリリカイト(即物性)をデザインの指標とすることを唱えました。
ベーター・ベーレンスは、はじめゼツェッションの運動に加わっていましたが、後にドイツ工作連盟の主要なメンバーとして活躍し、1909年に建造されたAGE電機会社のタービン工場は、鉄、ガラス、コンクリートによる美しい構成で知られていて、記念すべき傑作と言われています。
またベーレンスは電機製品やカタログなどのデザインにも腕をふるい、工業デザイナーの先駆ともなりました。
1914年の工作連盟展に建てられた「ガラスの家」を設計したブールーノ・タウトは、色彩建築宣言などの表現主義的な活動で知られますが、日本との関係も深く、柱離宮や伊勢神宮の造形美を称え、「日本美の再発見」などの著書を著したほか、工芸品の指導も行うなど、わが国の近代デザイン史の中でも重要な存在です。
このころ、フランスではオーギュスト・ペレによる鉄筋コンクリートの特性を大胆に生かしたパリのアパートなどの建築や、リヨンのトニー・ガルニエの斬新な工業都市計画案が注目を浴びました。
イタリアでは未来派の運動がおき、アントニオ・サンテリアによる未来都市計画案では、今日の都市の姿が予見されています。
またスウェーデンにおいては、ドイツやオーストリアの影響によって、工芸協会の再編が行われ、スウェディッシュ・モダンの基盤がつくられました。
(3)第一次大戦後のデザイン
1914年から1918年までの世界大戦による社会の混乱は、奔放な芸術表現を促進しました。ドイツの表現主義やソビエトの構成主義がそれにあたります。
1、表現主義・構成主義
表現主義は文学における自然主義や、美術での印象主義への反動を出発点としますが、建築では合理主義への反発がみられます。
その造形には自由な曲線などが好んで用いられました。
1921年に建てられたエリッヒ・メンデルゾーンのアインシュタイン塔はこの代表的なものです。
一方、構成主義は、機械的あるいは抽象的な構成美の追究を求めました。
ウラジミール・タトリンの第3インターナショナル塔のの案には、その特色がよくあらわされています。
2、デ・スティール
オランダで1917年、大戦から復員してきたテオ・ファン・ドースブルグを中心に創刊された雑誌の名前で、この運動には画家のモンドリアンらが加わりました。
徹底した直線構成、赤、黄、青の色彩など限定した要素による純粋な表現を建築、家具、絵画などに試みました。
ゲット・トーマス・リートフェルトの「赤と青の椅子」や「ジグザグチェア」、あるいはシュレーダー邸のインテリアには、その特色がよく表れています。
3、バウハウス
アーツ・アンド・クラフツ運動以来の理念をもとに、デザイン教育のための学校として、1919年ドイツのワイマールに設立されたバウハウスには、建築家のワルター・グロピウスをはじめ、パウル・クレー、モホリ・ナギー、ヨハネス・イッテン、ワシリー・ガンジンスキーらが教師として参加していました。
1923年のバウハウス展に際して、グロピウスは「芸術と技術の新しい統一」という指導理念を改めて打ち出すとともに、工房活動も一層強めていきました。
ワイマールの政治情勢の変化によって、1925年デッサウに移り、グロピウス設計の新校舎が建てられましたが、この建築はバウハウスの理念を具体化した代表例ともなりました。
バウハウスの工房では、量産品のモデル制作が行われましたが、グロピウスに協力していたマルセル・ブロイアーは、鋼管を利用して新しいタイプの機能的な家具を作りだしました。
1928年グロピウスがこの世を去り、後任のハンネス・マイヤーも去った後、ミース・ファン・デル・ローエが校長となりましたが、ナチスによってデッサウを追われたバウハウスはベルリンに移転し、1933年には閉校を強いられることになりました。
しかし、バウハウスの影響は、アメリカをはじめ各国に広がりました。日本のデザイン教育もその延長上にあると言えそうです。
4、アール・デコ
フランスでは、アールヌーボーが衰退した後、立体派などによる美術上の革新や、アフリカ彫刻その他の世界各国からさまざまな刺激、あるいはゼツェッションなどの影響によって、装飾美術は次第に活気を取り戻していきました。
1925年にはパリで開かれた国際装飾美術展は多様な内容を含んでいましたが、その主な傾向をとらえて、1925年様式、あるいはアール・デコと呼んでいます。
装飾の要素としては、幾何学的形態が多く用いられ、高級品志向が強かったようです。この様式にかかわりをもつ作家は多いですが、インテリアや家具の分野では、モーリス・デュフレーヌ、エミール・ジャック・リュルマンらがいます。
(4)1920年代の国際交流
1、建築
デッサウに移ったバウハウスは「国際建築」を発行しました。
「世界共通の材料や技術による機能的な建築、工芸は国際的に共通した様式による。」という主張で、国際建築様式として世界中に広まりました。
直線的な極めてシンプルな構成、白を基調とする色彩などに特色を示し、バウハウスの校舎によって実践されました。
次第に国際的な視野が広まっていく中で、1922年にはアメリカの新聞社シカゴ・トリビューンの国際建築競技が、また1927年にはスイスのジュネーブに建つ国際連盟本部の設計競技が行われましたが、これらは世界の建築家たちの交流するきっかけをつくりました。
また1927年ワイセンホフで開かれたドイツ工作連盟主催の住宅展覧会には、ル・コルビジェのピロティのある住宅、ミース・ファン・デル・ローエの集合住宅、グロピウスの乾式構造の住宅などが出品され注目を集めました。
このような国際交流は、1928年に近代建築国際会議(CIAM)の結成をもたらすことになりましたが、その宣言では、「アカデミズムの様式からの分離と、合理化、標準化らよる効率的な生産」がうたわれ、第2回以降「最小限居住」「建築の工業化」などのテーマで会議が進められました。
第4回に、現代都市に関する考察と対策としてまとめられたアテネ憲章は、その後の都市や建築の重要な指針となりました。CIAMは第2次世界大戦で中断されましたが、1956年までつづけられました。
20世紀を代表する建築家の一人であるフランスのル・コルビジェは、1929年サボイ邸で、近代建築への主張を具体化しましたが、さらに住宅の高層化による緑、空気、太陽の回復をテーマとして、「輝ける都市」の構想を1933年に発表しました。
都市の機能の高度化と快適な環境の整備は、20世紀の国際的な課題となりました。
2、家具
1920年代後半から1930年代前半にかけて、家具のデザインにも国際性をもつ、優れた作品が生み出されました。
ブロイアー、ミース・ファン・デル・ローエらの鋼管による椅子は、その代表的なものと言えます。
ミース・ファン・デル・ローエは、1929年のバルセロナでの万国博のために、鋼材をX型にしたバルセロナ・チェアをデザインしました。これは20世紀の椅子の名作の1つでもあります。
またル・コルビジェも鋼管による椅子をデザインしましたが、毛皮を張ったシェーズロングやアームチェアなどは今日でも多く用いられています。
ル・コルビジェの協力者であったシャルロット・ペリアンも家具やインテリアのデザインで優れた業績を残しました。
この時代には、家具においても標準化の考え方が進みましたが、ドイツのフランツ・シュスターは小住宅のための安価なユニット家具を考案しています。
(5)1930年代の動き
近代建築は、その特性を明確なものとするにつれて、ヨーロッパやアメリカばかりでなく、アジアや中南米など世界各地に普及し、機能主義の建築として定着していきました。
さらにアメリカでは、工業製品の販売競争の中で、工業デザイナーの活躍が始まり、商業主義的な効用を背景として1930年代に「流線型」のデザインを流行させることになりました。
1、建築
グロピウスやミース・ファン・デル・ローエは、アメリカに渡り、強力な工業力を背景とした新しい展開を見せるなど、この時代の中心はアメリカに移って行きました。
ニューヨークのロックフェラーセンターをはじめ、多くの高層建築は当時のアメリカを象徴するものと言えます。
イギリスもグロピウスらの影響を受けて、建築家のグループ「テクトン」らの活動が見られました。
その作風は堅実で、ハイポイント・フラッツ(集合住宅)などがあります。
イタリアでは、新芸術の創造を意図したムッソリーニの政策は、特に構造的な進展を促しましたが、ピエール・ルイジ・ネルビによる鉄筋コンクリートの独創的な構法は、世界中に大きな影響を与えました。
この時代、近代建築の思想をもっとも着実に取り入れたのは、北欧各国でしょう。民族的伝統や風土性との融合をはかり、材質感に富む建築、インテリアを成功させています。
中でもフィンランドのアルバー・アアルトやスウェーデンのグンナー・アスプルンドの活躍が目立っています。アアルトが1939年に設計したニューヨークの万国博覧会フィンランド館は、ダイナミックな展示設計として知られています。
一方、このような国際建築的な考え方や、機能主義デザインの形式化への反抗の動きも見られます。
フランク・ロイド・ライトは人間性の回復と諸機能の有機的統一を目指して、有機的建築を唱えました。
それは1930年代後期のカウフマン邸(落水荘)や、ジョンソン・ワックス会社によくあらわれています。
ライトが東京の帝国ホテルを設計したのは、これらより早く1922年頃のことです。
ドイツではナチスの文化統制によって、民族的表現の強い建築が強要され、ソビエトも社会主義革命後、古典的な様式主義の傾向を強めました。
モスクワの地下鉄駅構内のデザインは、その特徴をよくあらわしています。しかし、このソビエトの考え方は、後になって修正されることになります。
(2) 家具
建築の傾向と連動して、家具も工業生産的あるいは機能主義的な発送をもとにしながらも、人間との協調を高める方向を見いだそうとしました。
フィンランドのアアルトは、1930年代初期に成形合板による曲線を生かした椅子をデザインし、スウェーデンのカール・ブルーノ・マッツソンも成形した木材によって、柔らか味のある形態の休息用の椅子を作りました。
デンマークでは、フリッツ・ハンセン社が、曲木の家具やユニット家具を製造し、デンマークのモダン家具の基礎を築いていきましたが、デンマーク家具の指導者としてはカール・クリントがいます。クリントは自ら「生活の道具」と呼んだ実用的な家具の開発に力を入れました。
イタリアでは、1923年以来、建築と工業デザインの展覧会としてミラノのトリエンナーレが開かれ、モダンデザインの発展に貢献しました。
アメリカでは、1929年につくられたニューヨーク近代美術館が、デザインの分野に対する啓発、普及につとめ、その主催による1940年の「住宅装備における有機的デザイン」り設計競技において、チャールズ・イームズとエーロ・サーリネンの家具が入賞して有名になりました。
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