■ 日本のインテリアの歴史
□ 日本のインテリアの歴史
日本の建築やインテリアの歴史は、原始以来しばしば外国文化の影響を受けつつ、新しい様式として育ってきました。
それは決して日本的感性を失うものではなく、新しい日本の住様式として逆にその個性を問うてさえいます。
例えば、明治時代に「洋風住宅」と称される住様式が導入されても、日本の伝統的住様式がいまだ「和風住宅」あるいは「和室」として生き残っている現状に留意すべきだと思います。
特に、「座敷」という名で包括理解される日本住宅のインテリアは、近年においての、外観が鉄骨造りや鉄筋コンクリート造りといった古来の和風住宅とはまったく無縁の構造の中にさえ受け継がれていて、いわば日本のインテリアデザインの中枢を形成しているとさえ言えます。
この「木に竹を継ぐ」ような一見不可思議な手法の中においても、その個性を発揮できる日本のインテリアは、世界的にも、近年ますます重要視される傾向にあるとも言えます。
そこでまず、日本の歴史を大観して、日本人のの住様式を考察すると、原始時代から古代を経て現代に至るまで、その基底として民家(町家、農家、漁家)の大衆(被支配階級)的存在があります。
さらに支配階級の邸宅として、古代に唐、中世に宋、近世に明といった中国文化を導入して新しい様式までに昇華した寝殿造り、書院造り、数奇屋造りの3つがあることを指摘できます。
そして今日一般にいう和風住宅とは、それらを総合したものと考えられます。
その際留意すべきことは、変化の過程でそれぞれの様式が異次元的に推移するのではなく、同次元上で過去の様式の影響を残しながら変化していることです。
つまり、西欧の文化史、美術史上で多々見られるような、古い様式の否定や克服によって新しい様式が確立するのではなく、旧様式を骨子に、新様式の特性を付加する方法を積み重ねてきています。
「から」は、わが国の歴史において、文化的に先端となることの意味を含めた呼称でした。
その語源は、朝鮮半島の南端にあった「加羅」の国名が普及したからと言われていますが、「漢」との関係はさらに古いらしく、「海の彼方の国」の転訛として日本従来の文化、「和」と比較されました。
例えば漢詩に対する和歌があって、それらを折衷していくことが新しい文化の創造のようでした。
こり文化意識を茶道の始祖村田珠光は、「和漢の境をまぎらかすこと肝要」としていて、日本の住様式の対極的返還も、その歴史でした。
− 先史 −
住居・住家の「す」とは「巣」に語源を持ちます。事実、原始人は主として就寝時と風雨の時だけを住居内で過ごし、ほかは屋外で生活したので、人類にとって住居はまさに「巣」であり、「ねぐら」でした。
日本人の原始住居は、自然の地形をそのまま利用した洞穴住居をのぞけば、およそ堅穴住居、平地住居、高床住居に大別できます。
【堅穴住居】
いわゆる縄文時代の住まいとして堅穴住居があります。
この住居は、いまだ屋根、壁、床の空間構成要素の独立性が薄く、外敵や気候から身を守る単なるシェルターとしての役割が高かったものです。
ですから住居の中では、中央あるいは脇に炊事、暖房施設を兼ねた「いろり」がしつらえられ、竪穴住居ではほとんどの場合屋根(天井)と壁は一体化して、同一構法となっています。
差し渡し5m程度の円形ないしは隅丸短形の穴を50cmくらい掘り下げた竪穴平面を持ち、柱は土に穴を掘って四本から七本ほどを立てていました。
この時代の竪穴住居そのものはいまだ発見されていないようで、正確な構法についてはわかっていません。
しかし、全国各地にある竪穴住居跡の柱穴や平面図の調査、あるいは埴林文鏡に描かれた絵、古墳から出土した刀の飾りなどによって、現在さまざまな復元が試みられていて、尖石遺跡(長野県)や登呂遺跡(静岡県)などの例があります。
【平地住居】
時代区分として、弥生時代の住居がこれにあたります。
その平面は、ほぼ前記竪穴住居と同形式ですが、概して大きくなっているのが一般的です。
それに比例して屋根も大きくなり、ついには一体化していた壁が、いまだ低いながらも独立し、窓も出てきています。
要するに屋根、壁の室内構成要素が確立して、やがて民家としての日本住宅の歴史的基盤を形成するのです。
その復元例として平出遺跡(長野県)などがあります。
【高床住居】
やがて弥生時代から古墳時代になると、中国大陸、特に東南アジアから高度の稲作文化が流入して、新しい住構法、すなわち床の発生をみます。
いわゆる高床式住居で、ここに至って手斧などの加工具の考案を含む建築技術の急速な発展進歩があって、屋根、壁、床といった部位要素の独立した概念が成立したようです。
たとえば、奈良県佐味田古墳から出土した屋根文鏡には四棟の建物が描かれ、うち一棟は竪穴住居、一棟は平地住居、そして他二棟が高床の形式をもっています。
これら四棟は鏡が副葬された豪族の館、他方は穀物倉庫と理解されます。
具体的な復元例として登呂遺跡などがあります。
ここでは屋根・壁の区別が明確にされ、館の方には室内にある程度の生活具も並べられていたでしょう。
高床住居は中国大陸南部や東南アジア方面の柱様式が導入されたものと考えられ、形式の特徴として、屋根の妻側から室内に入る妻入りと、平側から入る平入りとがあります。
日本では、主として構造的に平易な妻入り形式がとられたようです。
こうした高床住居が発達の極みに達したものに、神社建築があると考えられ、出雲大社本殿、伊勢神宮正殿を見ることによって、おおよその形式を推察することができます。
原型の出雲大社は、現在のものとは異なり、社伝によれば、50mほどの高さがあったといい、これには妻側の入り口に向かって階段が地面からのびていました。
伊勢神宮は平側に入り口を持つ形式で、この二つの形式を元に、住吉造、春日造、流造、権現造といった応用型の建築様式が知られています。
※先日から「インテリアの歴史」に入り、本来、図などで解説するところを、文章のみですすめています。
このあたりからテキスト等々を一部購入して、自分の知的好奇心を満たし、そして来年に入ってから「本格的に!」といきたいところですが、なかなか難しい面も理解できます。
人の知的好奇心は、意外なところから生まれたりもするものですが、やはり自分のアンテナをいつも敏感に、四方八方張り巡らせていたいところです。
そこで、是非「旅」することをおすすめします。
美術写真や画像のみで勉強することも可能ですが、自分の「気」が入るのと入らないのとではその成果に大きな差が見られるものです。
自分の目で見、自分の足で探し、自分の手で触れる。
ぶらっと何の目的もなく「外」にでることも良いかもしれませんが、この際ですから、「目的」を持って「旅」する楽しさも味わってほしいと思います。
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退屈なんて「つまらない!」
好奇心を満たしに、外に出ましょう。
− 古代 −
飛鳥・奈良時代には、仏教伝来とともに中国の先進構造が直接ないしは朝鮮半島を通じて渡来し、法隆寺や薬師寺といった仏教建築が数多く建てられました。
特に「青丹よし、奈良の都は…」と謳われたわれた平城京は、東西32町
約4.2km)、南北36町(4.7km)に大路。
小路を基盤目状に整然と配した都市計画がなされ、それとともに庶民の住居も瓦葺きで赤く塗った柱に白い壁という形式が求められましたが、これを実行できるような裕福な人々は少なかったようです。
多くの農民に至っては、「万葉集」のなかの貧窮問答歌にあるように、「…伏いおの曲いとの内に直土に藁解き敷きて…」というような、原始時代と変わりのない生活状態で、竪穴や平地住居内の土の上に起床し、床のある住居は限られた人々のものでしかありませんでした。
一方、正倉院に代表される校倉造は、板ないしは三角断面材によって壁面構造がなされていました。
794年、桓武天皇が現在の京都に遷都し、唐の長安をモデルにつくったのが平安京です。
規模は平城京とほぼ同じで、基盤目状の都市計画がなされ、そこに本格的な隋・唐の先進文化の住様式が導入されました。
一、寝殿造
奈良時代末から平安時代になると、貴族の住宅としての寝殿造が形成されます。
これに住むことができたのは、律令国家を支配する高官(公家)に限られ、1町(40丈=約120m)四方の地割りを基準としてつくられました。
そして、主人の居所である寝殿を中心に、妻の住まいである北対屋、子供たちの住む東西対屋などがあり、そこから南の池に延びた中門廊に釣殿・泉殿を対照的に配しています。
池には中島があり、全体的には左右対称の配置をもつことを原則としていました。
しかし実際には経済状況などから、これらの建物をすべて完備した寝殿造の実例は記録にはなく、ひちすらこの形式に従うことを望むだけで終わったようです。
たとえば藤原良房の東三条殿では、その寝殿は桁行9間で西は吹き放ちの孫庇付きとなっています。
東対屋は梁行5間で東にな中門廊があり、寝殿西には南に透渡殿がつき、その北にも渡殿があります。
塗篭は周囲を壁にし、殿内の一室を塗り込めたもので、寝所や納戸として使われていたようです。
寝所には帳台が置かれています。帳台とは濱床の上に柱を立てて鴨居を置き、帳を四隅に掛け、これとは別に、壁代のように巻き上げることもできるように四周の中央にも掛けたもので、上方に帽額と呼ばれる横布をめぐらせています。
これら寝殿造の建物は住居ですが、現代の私たちが実感する日本住宅とは大きく異なる点がいくつかあります。
まず、主な柱は丸柱で、大面取りの柱はありますが、庇の間以外には角柱は用いられていません。
次に天井は張られていなくて、床は板張りです。外界と室内との遮断は主として蔀戸か、これを上下に分けた半蔀によって行われていました。
ところで、今日寝殿造形式をもつ建物といえば、まず京都御所をあげなければなりません。
現京都御所は、度重なる火災のために江戸時代から明治時代にかけて建て直されたものであり、位置も南北朝時代に里内裏の一つであった東洞院土御門殿の地で、平安京創建時と異なります。
正殿である紫辰殿を始めとして、清涼殿など主として儀式用の部分は平安朝の古制を用い、安政2年に造営されたもので、いわゆる寝殿造の様式を再現していると考えてもいいでしょう。
二、舗設具(しつらえぐ)
前回記述のようにしてつくられた寝殿造ですが、先述のように単にシェルターとしての空間ができたにすぎませんでした。
それを住宅か仏堂か、それぞれに用途が分けられるのは、舗設具の存在です。
住空間が成立するための基本的な舗設具には大きく分けて、
1、屏障具、
2、収納具、
3、座臥具
の三種があげられます。
江戸時代に記録された「丹鶴図鑑」を参考にして以下に説明すると、
1、屏障具
屏風、几簿、壁代、御簾などがあり、これらによって室内を区切ったり、身の回りに置くことにより、人目をさけたりしました。
屏風は現代でも儀式の時などに使用されることなど多いですが、平安時代では宮廷、貴族などには欠くことのできない生活用具でした。
現在では便宜上、本間屏風、中屏風、枕屏風の3つに分けられ、六曲程度までの幅を持つものが多いです。
「延喜式」にはすでにその制作基準まで示され、「類聚雑要抄」でも「五尺屏風」「四尺屏風」という呼び方があり、五尺屏風12帖は母家用、四尺屏風2帖は庇用、五尺屏風6帖は北庇用というように使用場所を規定しています。
几帳も屏風と同様移動可能な屏障具です。
几(骨木)に帷(垂れ布)を掛け、土居の上から横木までの高さによって「四尺几帳」「三尺几帳」と称し、帷はそれぞれ五幅、四幅の布をねじあわせたものです。
四幅のものは屋外との仕切りである御簾や庇などのところに立て、外部との遮断や防寒に用いました。
また、臨時の間仕切りや席の周囲に寄几帳としても用いることがありました。
壁代はこれらとは違い移動できず、御簾などとして間仕切りとして長押から下げられました。
現代でいえば御簾がブラインドであり、壁代はカーテンといったところでしょうか。
2、収納具
大小の櫃や箱の他に、厨子棚があります。
厨子棚は本来御厨子所(台所)で食物を納めておく棚であったものが、美しい形になるとともに日常の室内で収納具として用いられるようになったものです。
「類聚雑要抄」では「二階厨子棚」として、高さ2尺、上部板の大きさは1.37×2.85尺ほどで、下段には両開扉ががつき、反り足を持つものや、高さ一尺4寸、板の大きさ1.3×2.8尺で、扉はなく下段板までの高さが7寸という「二階棚」が描かれています。
3、座臥具
畳、茵、円座、いす、床子、草とん、胡床と数多いです。寝殿造における畳は今日のように室内全体に敷き詰めるのではなく、人が座るところにだけ一枚あるいはそれ以上を並べて置くものでした。
「類聚雑要抄」によれば、最高位のものが使用する繧繝縁から高麗縁、黄縁のものまで多種あり、また大きさも多種にわたって記されています。
畳はそれ自体座具であるものの、普通はその上に筵、さら茵を置いて座りました。
茵も材料や形によって多くの種類があります。
円座は字のごとく丸い直径3尺ほどの座具で、藺、管などでつくられていました。
以上が平座式の座具ですが、椅子座式のものでは、椅子・床子の種類があります。
これらのほかにも多くの調度がしつらえられることによって、寝殿造のインテリアは初めて仏堂とは異なる、人間が生活できる空間を形成したといえます。
つまり、古代の寝殿造は、日本住宅の様式変化のなかで、シェルターとしての住空間の形成があったこに歴史的な特質が認められ、それが機能するためには、舗設用具の発達を伴います。
こうした舗設具が住装置として建築化されるのは、次の中世の到来を待たなくてはなりませんでした。
− 中世 −
平安時代も末になると、地方に武家が台頭し、中世の端緒となった鎌倉時代には、関東の鎌倉を中心に武家政権が確立しました。
また、中国の宋から新しい禅宗が導入されて、封建時代の武家文化が徐々に成立するとともに、住形式にも変化が起こり、書院造の新様式が形成されました。
1、平安貴族(公家)は中世になると経済力が次第と衰え、その寝殿造はますます簡略化し、寝殿と中門廊だけの建物が多くなりました。
一方政治を司るようになった当初の武家の住宅についてはあきらかではありませんが、源頼朝が鎌倉幕府の建物を建てるとき、京を手本にしているところから、およそ寝殿造の省略形と考えていいと思います。
武士の住宅として最もよく知られているのが、14世紀初頭に描かれた「法然上人絵伝」に見られる、上人の父である美作国の押領使、漆間時国の屋敷でしょう。
中央の建物がこの屋敷の寝殿であり、草葺きの屋根に板葺きの庇をめぐらし、蔀戸や明かり障子が使用されています。
室内では畳の中程に屏風がたてられ、主人らしき人物が休んでいます。
寝殿には左手から中門廊が延び、武士たちが居眠りしていて、その左の建物はかわやらしいですね。
屋敷の周囲には網代垣がめぐり、南門もあります。
一応寝殿造の面影を伝えてはいますが、このころから障子や襖で畳敷きの室内を区切ることが行われていて、新しい住様式の傾向として注目していいと思います。
次いで室町時代は、再び京都に政治・経済・文化の中心が戻った時代で、往時の公家の貴族趣味が武家に受け継がれ、次第に武家固有と考えられる文化が育っていきます。
三代将軍足利義満は花の御所を造営し、金閣に代表される北山文化を育てました。
さらに八代将軍義政の時代になると、銀閣に象徴される東山文化を形成しました。
具体的には北山殿で当時「晴」と称した公的行事をする伝統的な寝殿の他に、「け」の日常生活空間である対屋・局・台所が充実し、それらの接点に「会所」と呼ばれる内向きの、茶を楽しみながら接客をする新しい場所が設けられました。
そこでは、掛け軸、花瓶、文房具を始め、特に唐物、すなわち大陸渡来の品々が並べたてられ、室内を飾るという「座敷飾」の考え方が生まれ、ここに集中して新しい住様式要素が出現しました。
義政の東山殿が造営されたころは、応仁の乱等によって政情は不安定で、幕府の政治的権威も衰退の一途をたどっていました。
ここで見逃せないのは、東山殿の中の東求堂には同仁斎と呼ばれる、それまでには見られなかった四畳半の小座敷がつくられたことです。
これは畳の敷き詰めに角柱、違棚、付書院をもち、現代和風の起源ともいえる書院造の形成過程がうかがえます。
そしてようやく近世初頭において、織田信長、豊臣秀吉によって大規模殿舎が派手に造営されることになり、書院造が武家特有の建築様式といえるほどに寝殿造とは区別できる様式となりました。
公家の寝殿造における中心殿舎は寝殿でしたが、これに対して書院造におけるそれは「広間」でした。
この広間は、中世の一時期「主殿」と呼ばれていました。
広間の用語は近世の武家殿舎に固有なものですが、主殿の語は寝殿の略化した形式として公家・武家の間で一般化しました。
その主殿が広間として展開をみたのは、近世初等の安土・桃山時代のことと推定していいと思います。
すなわち、この段階で初めて広間を典型とする書院造が武家特有の住宅様式になったと考えられます。
寝殿の形骸である主殿から、新しい書院造の広間への展開過程は、その設計手法にも大きな変化を与えています。
この設計方法を一般的に「木割」と称します。
しかしこれは江戸時代も末の言葉で、それ以前は「木砕」といわれていました。
それは建築に必要な部材を設計寸法通り刻むことで、その際、柱、梁などを無駄なく美しく組み合わせるために、寸法の基準が定められました。
つまり、現在でいうモデュールを組み合わせることで、木砕とはモデュラーコーディネーションにほかなりません。
〜 住装置 〜
木割の発達により、住宅の外観を整えることに対して一定の規範が生じましたが、では、室内はどうでしょう。
「仁和寺常瑜員伽院指図」では、鎌倉時代の末から室町時代まで存在した仁和寺の子院の例が知られています。
実際には15世紀初頭に存在した建物の図なのだろうと考えられますが、建物東側に池があって、西・南に塀がめぐらされ、西北に正門、南に常の門が開かれています。
建物は北から大御堂、小御堂、寝殿、東御所、下御所、風呂屋、の順に建っています。
さて、このうちの寝殿とみられる建物は南向きの九間(18畳)に畳が敷き詰められ、また東御所の御中居や、その北の間には部屋の周囲のみに畳が敷かれていること、東に面した部屋には床、棚や帳台構らしきものが描かれていること、御学文所と呼ばれる部屋には付書院が棚らしきものがついていて、さらに「鶴の御たなの間」と呼ばれている部屋があることなど、室町時代初期の住宅の事情がうかがわれます。
こうした中世、特に室町時代において急速に形成された書院造の特質は、シェルターとしての寝殿造の空間に、住むための機能を重視して、さまざまな舗設、調度品を設置したことにあります。
具体的には、まず空間要素として、1畳、2上段、3建具、4欄間、5天井を造作して、さらに、6床の間、7棚、8書院、9帳台構の「座敷飾」を様式化しています。
「書院造」という様式名も、新しいデザインとして最も印象的な書院の特徴をとらえて生まれてきたものです。
1、畳
寝殿造において、可動の座具として扱われていた畳は次第に敷き詰められるようになり、ついには建築化されて住装置の一つとなり、「座敷」の名称が普及するに至りました。
2、上段
主殿が広間へと発達した際、特に武家社会における身分制を明確にするために、対面の機能を持つ座敷の畳面に、上下の段差を付ける仕様がもとめられました。
現在最古の遺構として吉水神社義経の間の例にみるように、立式の場合にいすの高さによって身分の格差を演出したことが座式に応用したものと考えればよいでしょう。
桃山時代から江戸時代にかけて封建体勢が確立して、将軍、大名、小名、旗本等の家格が定まるとともに、例えば江戸城本丸大広間等では、上中下段が構えられるようになりました。
3、建具
さらに寝殿造と大きく違う点として、室内建具の存在を指摘しなければなりません。
寝殿造は、一つの建具が母家と庇から構成され、いわゆるワンルーム形式でしたが、書院造では壁、あるいは杉戸、襖、障子などで小さく区切られるようになりました。
また、室外に面しては蔀戸や板扉といった重い開き戸は一般に使われなくなり、軽便な引き違いの遣戸が普及して、間に一本の明かり障子を入れる、さらに慶長期からは雨戸が縁先に立て込まれました。
〜 住装置 〜
(4)欄間
天井と建具との間を埋める装置として欄間の発生が指摘できます。
欄間は、元来は空間を仕切る際の明かり取り意匠として日本に導入され、発達をみたようです。
しかし、「匠明殿屋集」においても記述はなく、特に中世では筬欄間、竹の節欄間程度で、多様な意匠が展開するのは近世になってからです。
また、住宅ではそれも後期のことです。
(5)天井
そのほか、室内を装置化するための大きな要素として、天井の発生が注目
されます。
寝殿造を記録した絵巻物等では上部が吹き抜け形式で描かれているため天井の様子がわかりませんが、一般に屋根裏が化粧で覆われていたと思われます。
ただ、平安時代末期には天井が造作されたらしく、「春日権現霊験記」に見られる棹縁天井を上から見た絵は貴重です。
書院造も原則として棹縁天井でしたが、上段の発生によって座敷を使用する身分差をつける仕様が求められ、二重折上格天井、折上格天井、格天井、棹縁天井の意匠上の序列が生まれました。
(6)床
書院造の空間の正面にあるのが床で、俗に言う床の間です。
床には、鎌倉時代に中国か宋から渡来した禅宗僧侶が仏画を鑑賞する際、その前に三具足を並べた卓から発生したと考えられる押板床と、同じく禅宗堂内に多様された座臥具から発展したとみられる畳床の2つの系統があります。
まず押板床は、厚いケヤキの一枚板を、畳から8寸ほど上げて正面壁に押し込むように造り付けるのでその名前があり、下に小壁がつきます。奥行きは2尺程度ですが、間口は1間より広いことを原則として、3間にも及ぶ例もあります。
数寄屋造が普及した江戸時代以降は、一般的には用いられなくなりました。
これに比べ畳床は、床框を座敷の畳上に造作して高くし、その壁に接する奥に畳を敷いて、框のある座臥具としての床子が壁に造りつけられた様子を残し、ときには上段としても機能します。
奥行きは深く半間程度で、間口は、押板床ほどに広くはなく1間程度です。
数寄屋造の成立に伴い江戸時代の座敷で普及し、今日「床の間」と通称する場合はこの使用を言います。
(7)棚
床の脇の座敷飾として棚は重要です。
寝殿造の厨子棚が建築化されたものと一応は考えられますが、筆返しなどのデザインからして、直接は中国の宋時代に発達した禅宗文物を飾る調度品としての棚が輸入され、唐物飾りの場として座敷正面に取り込まれたものと推定されます。
その造り付けの棚には多くの形態があり、最も古い形は違棚と呼ばれます。
2枚の棚板を食い違いに取り付けた例です。ここには中国大陸(宋)伝来の書籍など、次第に複雑なデザインの棚が工夫されたようです。
その違棚の初期の形態としては吉水神社義経の間の棚や、東求堂同仁斎の棚などをあげることができます。
(8)書院とこ
床、棚に連続して庭側に書院が造作された。この書院はもともと中国僧房の書斎の仕様で、出文机と呼ばれる、縁に張り出してつくられた机に端を発する。
「法然上人絵伝」には、僧が座って書き物をしているような様子が描かれ、書院本来の用途がよくわかります。
この書院も次第に実用の役を離れ、棚同様、客に唐物珍品を見せるため、それを飾る装置として建築化されてしまいました。
当初単に、「書院」と称しましたが、江戸時代には「書院」といえば床、棚、書院がある座敷の空間全体をいうようになり、あえて「付書院」と区別して今日に至ります。
〜 住装置 〜
(9)帳台構(納戸構)
大規模な武家殿舎には、上段の脇に必ずといっていいほど帳台構が取り付けられました。
「武家隠し」などとも別称し、上段に座した貴人をいったん暖急の折りに警固する武士が控えていたところともいわれますが、帳台構の扉は框が4〜5寸ほどもある重厚なもので、とてもそうした非常時には間に合いません。
これは、寝殿造における寝室=納戸の厳重な戸(猿落としという鍵がつきます)の形式が装飾化されたものと考えるほうがよく、「慕帰絵」にはその様態が描かれています。
「納戸構」の別称があるのは、その前身を物語っているものでしょう。
このように書院造には室内に様々な装置が形成されましたが、これらの唐物を飾るという作法が接客の基本として重要な位置を占めるようになりました。
その実例が一連の「御飾記」と称される史科です。室町時代における将軍家の座敷飾は、「室町殿行幸御飾記」や「君台観左右帳記」でうかがい知ることができます。
前者は後花園天皇が6代将軍足利義教邸に行幸されたときの記録で、室内には押板、違棚、書院が設けられ、それらに座敷飾がなされた様子が記されています。
例えば、書院にオウムをあしらった硯を中心に、大小の象牙軸の筆を添えた蚊竜の筆架、墨床、刀子、水入、翰盤、硯ぺいをならべ、七宝製方盤の上には夏け筆の巻軸が置かれ、蚊竜文の印籠、七宝製の花瓶などの珍品が置かれていました。
書院上部には龍頭のついた小型の喚鐘を吊し、北の柱には鏡、南の柱には火灯袋を掛け、押板の手前隅には堆朱の卓が据えられていました。
また床の左側には違棚を設け、蓮華文掘りの盆上に油滴天目の茶碗を蚊竜文の天目台にのせ、壷や七宝製の花瓶、剔紅の角形食卓を飾る…」といったぐあいでした。
さらに「君台観左右帳記」は能阿弥が記したとされ、これを相阿弥が伝写して座敷飾の典拠として広く流布しています。
かくて書院造は住装置が発達して、建物と一体化することにより座敷飾の様式化が進んだものと考えられます。それは今日私たちがイメージする、和風の意匠の、直接の原点なのです。
〜 民家 〜
中世における庶民の住居は、古代と大差ありませんでした。鎌倉時代の「一遍上人絵伝」には、京・鎌倉の町屋が描かれていますが、規模、仕様ともに平安時代と変わりない程度のものです。
しかし室町時代になると、特に京都で町衆の経済力が充実して、徐々に町屋の発達がありました。
具体的には、室町時代末期に描かれた「洛中洛外図屏風」により、その様子を詳しく知ることができます。
応仁の乱でその町並の大半を消失して後、素早く立ち直った京都庶民の様が描かれていて、町は整然と碁盤目状に交差した道で区画された平安京の面影を残して、ほぼ1町四方に町屋が配されています。
屋根は板葺き石置きが多いですが、棟に瓦を用いた、卯建をあげている家も見られます。
壁は土壁で、入り口には布や暖簾が下がり、窓は格子になっています。
上部は細かな桟の虫籠窓になっていて、着物、扇、刀などを商う店のほか、食べ物屋や髪結い、さらには遊女屋も描かれています。屋内の様子は詳しくわかりませんが、わずかながら畳が敷き詰められ、屋内には板戸らしきものもある家が見られます。
このように中世民家は、特に町屋において発達をみました。特質すべきは、京都上京及び下京の最繁華地には2階建ての出現があった点で、すでに近世民家の先駆的形式が認められます。
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