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■  日本のインテリアの歴史



− 近世 −



寝殿造と、書院造と古代から中世にわたって大きく様式を変化させてきた日本住宅は、近世に入るとまたさらに様相を変えました。

わけても徳川幕府300年の太平の世が続き江戸・京・大阪といった三都の発達があって、様々な都市施設が成長しました。


そこでは長崎を通じて南蛮・紅毛や中国明の舶来文化を導入、そして新たに流行意匠を育てて、奇想性に富んだ数奇(好み)の変化を多様に求め、やがて数寄屋造の新様式を形成するに至りました。

その端緒の安土・桃山時代は、あらゆる建築様式が混交する時代でもありました。


天正元年(1573年)に足利15代将軍義昭を京都から追放した織田信長は、天正7年に安土城を築きました。

日本初の城郭建築だった安土城は、外観5層内部7層の天守を持ち、平面規模からみれば、徳川家康・秀忠・家光の江戸城を別にすると、豊臣秀吉の大阪城よりも大きく、史上最大級でした。

しかも石垣上の一階は不等辺八角形の平面を持ち、内部中央には地下一階から地上三階までの大吹き抜けを設けていました。

その吹き抜け空間には舞台を張り出し、ほかに茶座敷や神道・仏教・儒教・道教的な空間などあらゆるデザイン要素が組み込まれ、現在私たちが城に対してもつ軍事的なイメージとはまったく異なって、政治的・宗教的・住宅的要素を持っていました。


こうした安土城をはじめとする天守の内部意匠は、中世の書院造を大成したもので、さらに天守の下に多くの広間を有する殿舎をも建てていました。


織田信長の後に天下の実権を握った豊臣秀吉は、その統一政策の一つとして、太閤検地を行っています。

古代、中世と寸法の概念は徐々に一定かしてきましたが、秀吉は1間を6,3尺と決めることによって検地を行い、年貢の取り立てをより確かなものとしました。

京都地方では6.5尺を1間とするところが一般的であったところを2寸縮めたわけです。近代においては、東京、名古屋、北陸、京都など地方によって、1間を6尺、6,3尺、6,5尺というように若干の差異がみられます。



さて、中国から伝来した喫茶の風習が、桃山時代になるといわゆる草庵風の茶として発達しました。

草庵風の茶を創始したのは村田珠光といわれ、それが武野紹鴎を経て千利休によって完成されました。

その際茶の湯は和敬静寂を重んじる侘び茶となり、建築はもとより茶道具、花入、書画等を総合して日本独自の芸術に昇華しました。

茶の湯が茶礼として様式化される以前は、まさに茶を飲むことが重要視され、形式性を持った専一の空間は存在しませんでした。

多数の人が集まる広間や会所、さらには東求堂同仁斎にみられるように小座敷の一角にいろりを切って茶をたてることもあったし、台所の隅でも茶をたてることもあったと推測されます。



(1) 数寄屋造

茶礼専一の空間が出来た後も、台子などを使う書院形式の広間や、くだけた形の囲い、鎖の間あるいは草庵風の数寄屋と用途によって使い分けられいました。

このように天守、広間、数寄屋の諸建築の意匠を多様に求めながらこれらをつくった感性を総合して新たに形成されたのが、柱離宮に代表される数寄屋造です。


数寄屋造といえば、草庵風茶室の意匠のみを取り入れたものと理解されされがちですが、そうした自然素材を用いることは数寄屋造意匠の一面の表現に過ぎず、ましてや「侘び」、「寂び」を重視した地味で静寂な空間が数寄屋造であると考えるのは誤りです。

逆に、派手でにぎにぎしく、ときには目が覚めるような華美な「キレイサビ」の空間もあるという一面も忘れてはなりません。

前者の代表が桂離宮であるとするならば、後者の代表は西本願寺飛雲閣や金沢城の間でしょう。

こうしたデザインの多様さがあるだけに数寄屋造は意匠的に様式上の特質が認められるわけで、平面の構成や機能は原則的に書院造りそれを踏襲しています。


書院造の形成時に案出された住宅木割は、ここで微妙に変化しました。

前述の「匠明殿屋集」の大規模殿舎の設計方法では、一般規模の建物の設計には必ずしも都合よくありませんでした。


また近世に入って、柱間寸法を決める「畳割」の技法が案出されています。古代以来、日本の住宅は身々間距離を何間何尺にするかを基準に設計されていて、これを「桂割」といいます。

桂割による座敷は、その規模と柱の太さによって、敷き詰められる畳の寸法は一定しません。

逆に畳の寸法を基準にしてその様式を考え、外側に柱を配置する方法を「畳割」といいます。

これによって柱真々寸法を6尺5寸で設計する柱割の「真々制」の方法から、京間畳を単位として畳割を行う「内法制」の方法へと移行しました。

この畳割には「畳を敷き変える」という意識が潜在することを覚えておきたい。天文18年の記録によると、まだ吉凶の区別はないが、天正16年の記録によると、畳は吉事と凶事によって敷き方を変えると述べています。

この時期は、また床刺しが凶の意匠として嫌われ、吉凶の考え方が建築意匠に影響を与えたことは否めません。

建築書としては当時の建築百科事典に当たる「愚子見記」が天和3年ごろに完成していますが、この中でも畳敷様の吉凶が示されています。


こうした畳割技法は、設計に分単位の微妙な寸法感覚が必要だったので、数寄屋造ではより繊細な木割が求められました。

元来書院造では、外周の建具は遣戸と呼ばれる引き違いの板戸2枚の間に1枚の障子が入る3枚建てで、しかもその間には隙間を防ぐための戸寄せもつけられ、柱を必要以上に細くすることは不可能でした。

しかし、雨戸を柱の外に建てまわすことによって細い柱も使用可能になって、さらに面皮柱が出現すると実際には面がなくなり、「柱片面落ち」、「柱面内」などという面に関わる木割の単位が具体性を失い、きわめて木細い木割が発達する結果となりました。

これは、中世に発案された木割を江戸時代における住様式に応用したものといえます。



2 住意匠



書院造における住装置は、木割という一定規範の上に成り立つものであるから、意匠の自由度は必ずしも高くありません。

ところが数寄屋造になると住み手の好みに合わせ、住装置の意匠をさまざまに競うようになりました。

以下、そのことについて説明します。



(1) 棚

書院造では形式を重んじ、違棚、西楼棚といった棚がつくられることを原則としました。

48種類の棚を書いたものがありますが、遺構を見る限りでは、書院造様式の中で用いられるのはそのうちの数種で、ほとんどが違棚と西楼棚です。


ところが数寄屋造の建物では、非常に多様な棚意匠がみいだされています。

たとえば、柱離宮における「柱棚」や修学院離宮における「霞棚」は、醍醐寺三宝院奥寝殿の例を加えて「天下の三名棚」と称されて、西本願寺黒書院の棚なども華麗な例として有名です。


棚の意匠について記した雛形本は、明治時代末までに先述の48種の棚意匠を記したもの、そのほかに「外五十二棚」と名付けられた52種の棚を記したものがあって、都合100種の変化が考えられました。

それ以外に、床や書院などの融合を図った意匠を記したものも発刊されています。




(2) 床・書院

数寄屋造では書院造と異なり、床・書院が単純に造作されることは時代とともに少なくなりました。

床の中に書院が入り込んだ形式も考案され、もはや出文机から発生した書院の機能を離れて、単なる床周りの意匠の一種と化しています。

また、棚側の壁下方をあけてちんくぐりとしたり、目線通りの床柱を切断して床と棚との融合を図った例も多いです。


前述の柱棚や霞棚もその好例ですが、このほか江沼神社長流亭や金比羅宮表書院の例もあります。

民家では、ほとんどがこうした融合例です。




(3) 建具

書院造においては、腰に絵画を張り付けた障子や襖が用いられましたが、数寄屋造ではいわゆる型押しの唐紙が普及しました。

さらに柱離宮月波楼のように、襖の中程に障子が組み込まれたいわゆる「源氏襖」も工夫されています。民家では障子組子の複雑な意匠をもつものが多くなりました。


この建具意匠は雛形本にが詳しいです。

特に江戸時代末から明治時代に上梓されたものには、欄間意匠と対にしたり、組子の中に具象的模様をはめ込むなどの技巧的な手法が記されています。

見て楽しむファッション雑誌のような流行意匠が多様に紹介されていて、四季により数寄屋造のインテリアをさまざまに替えるためのカタログ的役割を持っていました。


「匠明殿屋集」では、住宅をつくる際の木割について余すことなく記しているように思われますが、実は欄間についてはひとこともふれていません。

他の公刊木割書もほぼ同様です。

欄間は長押の上の小壁につくものですから、木割としては重視する必要はないでしょうが、数寄屋造においては、部屋のイメージを決定づける大きな要素として注目されました。


二条城二の丸御殿や西本願寺対面所などの書院造殿舎においては、欄間に極彩色の丸彫り欄間が入れられています。

これも竹の節などにくらべると大変派手で、西本願寺ではこの欄間にちなんで「鴻の間」と名付けられ、対面所の別称にもなっています。


しかし、数寄屋造の面皮柱等を用いた住空間には、こうした極彩色の欄間は適合しません。

そのため、一枚板を彫り抜く透かし彫り欄間や、障子の組子のように細い桟を組み合わせた抽象的模様のようなものなどが、好んで使われ始めました。


妙成寺書院や浄土院客殿では、部屋境ごとに欄間意匠をまったく変えていて、浄土寺客殿の欄間は、小堀遠州の好みの模様を用いています。

この種の模様は、遠州の伏見奉行屋敷でも多用されたことが知られ、やがていわゆる遠州模様として流行し、西本願寺黒書院の棚などの遺構にその例が見られます。


このように個人の好みが流行して例としては、ほかには尾形光琳があげられます。

これは遠州模様が抽象的図柄であるのに対し、具体的な図柄を描いたもので、建築よりも小袖などの衣装において多くの先例をみていて、主として上方意匠として好まれたようです。


この他透かし彫り欄間の絵柄としては、江戸時代後期では、「富岳三十六景」や、「東海道五十三次」などの発刊による旅行ブームによって、日本各地の名所、旧跡後を図案化した模様も好まれました。


なお建具と欄間は、そのカタログ集ともいえる雛形本で混合して紹介されたので、両者を同一意匠で統一を図ることも行われたようです。


(4)天井


江戸時代に記された、「御殿向作事堅書図鑑」では、部屋の格式によって上位から下位へ折上小組格天井、折上格天井、格天井のように意匠を使い分けていて、書院造の基本的な計画方針は、一応この時代でも踏襲されていたものと考えられます。

しかし、数寄屋造は「数奇」を求めた造作であり、身分、格式などという「野暮」な考え方を否定したものでした。

それでもなお、数寄屋造の中にその「野暮」をあえて持ち込んだ例も少なくありません。

民家をはじめ、身分制の桎梏をはずされた明治時代の数寄屋造では、きわめて技巧的な天井意匠が使われ始めました。


一方、可動式の道具についても長持ち、行李のほか、商用、家庭用に用いられた各種の箪笥は多くの種類がみられました。

さらに夜の文化の発達とともに照明器具も多様化し、古代からの灯台や、室町時代から使用され始めたといわれる短けい、または行灯などのほか、従来は寺社用のものだった石灯籠も一般住宅の庭園用として使われるようになりました。

これらは利休形、織部形、雪見灯籠などと名付けられ、柱離宮の石燈篭は有名です。


以上、数寄屋造では、多用に住意匠が工夫され、寝殿造、書院造という支配階級のみに限定されていた様式が、この段階で階級を越えて一般化し、ときに庶民的感性を加えて日本座敷の歴史的普遍性をも備えて、現代に至っています。


近世は、町民文化が全盛を極めた時代だけに、三都を始めとする全国各地の城下町、門前町、港町で、町民の建築が発達して二階屋が普通となりました。

平面は古代以来の伝統を継ぐ二列平面で、一方に道より出入りする通り庭、台所の土間があり、他方に店と座敷を奥に向けて並べました。

ときに三階屋もつくられ、特に大手筋の表通角は、角屋敷と称して城の櫓のような大規模な町屋が建設されました。

これらはたび重なる大火の経験から耐火性のある塗屋造と呼んで区別しました。


地方では農家も徐々に経済力をたくわえて充実し、名主クラスは地方特有の様式を育てました。

その時期はやはり江戸時代中期以降で、代表的なものをあげれば、岩手県南部の「曲がり屋」、秋田県の「中門造」、東京都多摩川上流・神奈川県の「かぶと造」、長野県の「本棟造」、岐阜県の「合唱造」、奈良県の「大和棟」、佐賀県の「くど造」などがあげられます。

これらはいろいろな間取りをもちますが、基本的には、2間取型、3間取型、4間取型で、農作業場や台所を兼ねた土間、日常生活をする板敷きのいろりの間、接客用の畳敷座敷があります。

土間やいろりの間は、野物の梁や桁の構造材をそのまま現し、ダイナミックな空間構造を示します。

そして座敷のみに天井を張って床、棚、書院を構える数寄屋造のデザインをしました。


民家では、書院造、数寄屋造のような形式的で大規模な住宅は建てられませんでしたが、太平の世に至って、住に対する庶民の要求は徐々に高まり、座敷を充実するに至りました。

江戸時代後期になると、建具雛形、欄間雛形、棚雛形等のカタログ的雛形が多数発刊されました。

しかし裕福な一部の上層農民、町民をのぞけば、やはり一戸の完全な住宅を望むことは困難でした。

そこで発案されたのが、嘉永3年刊「雑工三編大工棚雛形」に記された「座敷向略木割」という木割です。

これは「略木割」という名称が示す通り、従来の木割を使っての本格的住宅の造作を志向しながらも、実現しえない庶民の心意気のようなものが表現さけていて興味深いです。


このようにして略木割が案出されるほど大衆化された町屋普請は、幕府をして家作制限令を出させたほどで、そこには長押、付書院などの制限が書かれていて、少なくとも表向きは制限されました。

しかし、遊郭や、芝居街の都市施設としての建物では、座敷ごとに、天井、欄間、建具を多様に意匠化したり、床、棚、書院のデザインに贅を凝らしたりなどしました。

これらは柱離宮のような抑制された意匠の、品格ある数寄屋造とは好対照をなすものでした。


明治になって家作制度が失効すると、旧横山家住宅のように、極端に豪奢な例も現れて、数寄屋造は民家にも普及しました。

床、棚、書院の融合は、伊藤家の主人の書院として建てられた、三角形平面の三楽亭などが、顕著な例です。

このように数寄屋造は、民家の様式をも包括して、土農工商の封建的な身分制を越えて日本人の住様式として定着しました。

このようにして、現代の和風住宅につながる日本座敷の伝統が確立しました。

その時期は、洋風建築が導入された明治時代後期の、30年代と考えられます。




− 近代 −




日本の住様式は外来の住様式を徐々に受け入れつつ変化してきましたが、明治時代の到来とともにさらに大きな変革を遂げることになりました。


明治政府は富国強兵、殖産興業を図り、一日も早く日本を欧米並みの近代国家とすることを目標としました。そして、その技術を習得するために、多方面にわたって多数のお雇い外国人を受け入れました。

また、鉄、セメント、ガラスといった建築材料の生産も、早くから新政府の庇護を受け、洋風建築をつくる際の材料として徐々に用いられるようになっていきました。


教育の分野でも工部大学校に造家学科、いまの建築学科、が設立され、明治10年には、後に鹿鳴館、三菱1号館、ニコライ堂などの設計に携わったジョサイア・コンドルが招聘されました。

コンドルの教えを受けた弟子には明治中期以降の日本の建築界の指導者となった多くの建築家がいます。

なかでも、東京駅、日本銀行などの設計者である辰野金吾、赤坂離宮などを設計した片山東熊、横浜正金銀行でしられる妻木頼黄らは、特に知られているところです。


これらの西洋建築を本格的に教授された人たちのほかに、一方では、横浜居留地などで実地に西洋建築を習った棟梁などもいました。

政府は官庁や学校建築に洋風建築を採用することとしましたが、中央官庁はともかく地方ではお雇い外国人の設計に十分な資金を得ることは、困難なのが現状でした。

そこで、乏しい費用と当時の技術で擬洋風と呼ばれる形式の建築が多く作られることになります。

それは、横浜居留地などで学んだ林忠恕らの棟梁の手によるもので、片廊下や中廊下の木造二階建ての所々に階段ホールを設け、さらに玄関口には石階段とポーチやバルコニーを付けるという形式でした。

これには特に当時の左官職の技術が生かされ、白く漆喰で塗り込めたり、こてを使って細密なモールディングを表現するなどの手法が多用されています。


一方、建築の洋風化は、家具類にも種々の変化をもたらし、特に椅子に対しては需要が高まりました。

初期には輸入品が売られていましたが、それでは供給しきれず横浜を中心に国内でも生産されるようになりました。

しかし生産は家具屋が行ったのではなく、馬具屋や古道具屋などが上海や香港からやってきた中国人の職人から指導を受けたり、輸入された椅子を分解して研究するなどして製作したものが多かったのが現状でした。


また、政府は官庁、学校、軍隊で椅子式の生活を採用したため、東京でも、官庁周辺に洋家具屋街が形成されました。学校用の椅子も大量に生産されました。

明治8年の東京府下の洋家具生産量は資料によれば、椅子は10,279脚、椅子クックョンが350個生産されていて、西洋型箪笥、西洋型箱類などが大量につくられています。

これも、洋風生活を志向した一端を示しているものでしょう。

しかし、これらは本格的な洋風家具というよりも、簡易洋風とでもいうべきスタイルで、和家具づくりの指物師がその技量を駆使してつくったものが多かったようです。


一方、一般家庭の和風住宅内では椅子式生活は普及せず、本格的に普及しだしたのは第二次世界大戦後のことでした。


明治から大正にかけて、中産階級の間では西洋の合理主義に基づく生活改善運動が始まります。

それまで、井戸から水を汲み、座って流し場での仕事をしていた生活から、都市部でのガスや水道の普及とともに現在のような立ち式の流しへと変換しました。

椅子式の生活、居間を中心にした家族本位の間取りなどの住宅改善を主張する動きや、プライバシー重視の点から個室を重んじ、それによって中廊下式平面を持つ住宅が、中流級住宅の主流となっていきました。

それによって応接セットや組み合わせ書架などが生産されるようになり、こうした洋家具需要の増大につれて、従来の和家具では使用されなかった広葉樹が家具用材料として使われるようになりました。


海外のデザイン、美術、工芸の運動も明治時代末から次第に紹介されるようになり、日本のデザイン界にも大きな影響を及ぼしています。

1900年のパリ万国博では、アールヌーボーの様式が会場を埋め尽くし、これを視察した福地復一によって日本図案会が生まれました。

大正時代に入ると、フランク・ロイド・ライトが帝国ホテルを設計、機能と意匠を一体化させたスタイルは、インテリアの面からも注目されました。

大正12年の関東大震災により、多くの建築物が倒壊、焼失しましたが、これによって、耐震構造の鉄筋コンクリート造りが確立します。

復興の中でつくられた東京中央郵便局、同潤会アパート、白木屋、大阪十合百貨店などは、近代建築史に名前を残す優れた作品といえます。


住宅においても、アントニー・レイモンド、堀口捨己、谷口吉郎、蔵田周忠、山口文象、吉田五十八、板倉準三らの多くの建築家が個性的で、魅力的な作品を設計し、後の建築界に大きな影響を与えています。


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